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TOPリレーエッセイ > 第9回

リレーエッセイ

「移植の基礎」 小野寺 晃一

久しぶりに大学に戻りもうすぐ1年になろうとしている.市中病院での勤務とは異なり,移植チームということで大部分が移植に関係した患者さんばかりであり,大変で忙しくはあるものの,充実した臨床生活を送れているのではないかと思う.東北大での日々の診療からたくさんのことを学ばせていただいてはいるものの,自分の同種移植に取り組む際の基礎となっているのは名古屋第一赤十字病院で過ごした2年間であり,この時のことを振り返ってみたいと思う.

名古屋第一赤十字病院は名古屋駅の西側に広がる中村区に位置している.中村区は戦前から栄えた商工業地区であり,高層ビルが立ち並ぶ名古屋駅の東側に比べると(最近はだいぶ発展してきたようだが)開発は進んでおらず古い町並みを残している.古くからの遊郭街などもあり決して治安がいいとは言えない地域である.病床数は850床程度で診療科は一通り揃っており,働く医師数は研修医の先生も含めて300名弱の大規模な病院である.血液内科は10人前後の医師で構成され血液疾患一般の診療にあたるが,特に同種移植に力を入れており年間50例前後の同種移植を行っている.名古屋大出身者のみならず,全国から移植を学びたいという意欲溢れる若い医者が集まってきており,現在の部長である宮村耕一先生が以前東北大に所属されていた縁で東北大からも数名の医師が訪れている.自分はというと,同種移植に対する強い情熱を持ち名古屋での研修を自ら申し出た,と言いたいところだが,当時の指導医であった石川泉先生にご紹介していただいたことがきっかけで,名古屋第一赤十字病院がどういう病院かもほとんど知識がない状態でたまたま名古屋に行くこととなった意識が低い研修医であった.

大崎市民病院で2年間の初期研修,岩手県立中央病院で1年間の後期研修の後に赴任した自分は同種移植の経験は皆無であり,同種移植にとりわけ強い興味があるわけでもなかったため移植の知識にも乏しかった.そのため,勤務開始当初は病棟やカンファで飛び交う言葉はわからないことばかりで,移植の指示出しも何をしていいかわからず,「果たして自分はここでやっていけるのだろうか」と非常に不安であったことを覚えている.しかし,その不安も徒労であった.当時の名古屋第一赤十字病院は大学院入学前の6-7年目の先生をトップとして非常に若いメンバーで移植がなされており,さながら移植を行う「部活」のような雰囲気で,年も近い故にわからないことは何でも質問することができた.また,同院の移植は伝統を非常に重んじており,移植マニュアルに厳密に従い画一化された移植がなされていたため,身につけるべきものが明確で移植経験が0に近い自分でも短期間で何とか標準的な移植を習得することができた.このように移植を学ぶ環境が充実している上に,当時は「習うより慣れろ」といった状況に近く,1例目を先輩とともに経験した後はすぐに主治医として移植を経験させていただき,実践を積むことができた.自分が1から移植に携わった初めての症例は50歳代のATLL急性型の患者さんであり,まだ働き始めて間もない5月にもかかわらず骨髄バンクのコーディネートから任せていただいた.骨髄バンクの仕組みすら知らない自分は非常に困惑を覚えたものの,先輩方にいろいろと助けてもらいなんとか移植に漕ぎつくことができた.大きな合併症なく,そして難治性の疾患であるにもかかわらず無事寛解で退院されたときには何にもかえがたい充実感を得るとともに,移植の魅力を感じることができた.その後も,わからないことの連続であったが,優秀な先輩や同期などに助けられながらたくさんの症例を重ね,2年もすると大抵のことは一人でできるようになっていたのではないかと思う.

残念ながら東北地方は移植ができる病院が少なく,それ故に移植のトレーニングを受けることができる病院は限られている.様々な治療法が開発されている現在においてもなお同種移植は難治性の造血器悪性腫瘍の患者さんにとって希望の光である.どこの病院でも移植ができるようにする必要性はないものの,適応となる患者さんに適切なタイミングで移植を提供できるように血液内科医はトレーニングされているべきである.そのようなトレーニングの場として東北大の移植医療はより成熟していくことが必要であり,その過程にわずかでも力添えすることができれば幸いである.