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TOPリレーエッセイ > 第1回

リレーエッセイ

「その先の向こうへ」 張替 秀郎

 今、この原稿をアメリカ血液学会で滞在中のフロリダで、時差ボケで目覚めた真夜中に書いている。真夜中に目覚めて考えることといえば、昔のことであり、入局した頃はアメリカ血液学会に来るなんて思いもよらなかったなどから始まって、昔はどんな治療をしていたか、病棟はどんな感じだったか、どんな患者さんがいたかなど、つらつらと思い出している。私が血液を始めたころは、治療薬といえば昔ながらの抗がん剤であったし、そもそも標準治療という概念もなかった。まだ造血器腫瘍を治すというより治ってほしいという意識であったように思う。

 あれから30年近くが過ぎ、分子標的薬なるものがいつの間にやら出てきて、リンパ腫が治るようになり、あのころ全滅であったCMLが慢性疾患となって、治癒さえも望める時代になった。そして、骨髄移植と呼んでいた治療法が造血幹細胞移植という治療法となり、毎週のように行われるルーティーンとなった。化学療法よりも早く退院していく患者さんもいるし、社会復帰が当然となった。まさに隔世の感がある。

 振り返ると、骨髄移植は当科が第二内科と言っていた時代に始まった。初期のころは年間数例で、移植が決まると無菌室のアルコール消毒から始まり、アルコールに弱い看護師さんは真っ赤になって倒れた。患者さんは無菌室の向かいの浴槽でヒビテン風呂につかり、タオルに包まれレッドカーペットを歩き、無菌室に入った。入ってからは患者さんから長く伸びて前室に届くカテーテルから採血を行い、医師・看護師は週2度宇宙服のような恰好をして無菌室に入った。だから、患者さんは、どんなにつらくても身の回りは自分でするしかなかった。治療を受ける側にとっても治療を行う側にとってもつらい治療だった。

 そのような試行錯誤のような移植でも生き抜く患者さんは必ず現れ、たまたま駆け出しの私が主治医であった女性が当科の最初の成功例となった。彼女は嫁いで姓が変わり仙台を離れ、外来からも離れた。その彼女と思いもよらず2年ほど前に仙台駅で再会した。里帰りでたまたま仙台に来たという彼女は思いのほか、あの当時の面影を残していた。相変わらずウィッグだと笑っていたし、お子さんもできなかったと思うけれど、それでもあれからの人生が歩めたことは悪いことではなかったと思う。

 30年前より明らかに治る血液患者は増えてきた。それでもなお、亡くなる患者さんはいる。だから、みんな何とかしなければと頑張っている。今から振り返ると30年前の移植はなんと無駄で野蛮なことをしていたと思うけれど、その時代なりに医学はいつも高みを目指している。そして、この「医学」という言葉は「それぞれの医師」に読み変えてもよいと思っている。